コラム

コタッキーがいく!② 火中の栗を拾う男、独立を決意する

2019/03/08


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新興市場の立ち上げに

当時35歳であった私は監査法人から証券取引所に転職して、世の中にゼロから何かを立ち上げるという経験を生まれて初めてすることに。それも立ち上げるのは、ベンチャーが上場するための「新興市場」。日本を支える金融インフラです。当時の大阪証券取引所は、東京証券取引所との競争においては圧倒的に不利で、業績もジリ貧、監査法人のエリート達からは「そんな先に転職するなんて、何を血迷ったか」と散々な言われようでした。
立ち上げる新興市場の名称は「ヘラクレス」。転職して早々、私の仕事は上場会社の経営者を訪問して新しい市場の説明をするというものでしたが、いただいた第一声は「米国のナスダック関連の市場だから上場したのに、いきなり大証ヘラクレスなんて妙な名前に変えやがって、おかげで自社の株価が暴落したじゃないか!」。罵声を浴びせられ、何を説明しようとも、お詫びをしようともまったくとりあってはもらえず、本当に情けなかった……。
市場のために、上場する会社のために、との熱い志を胸にこの仕事に移ってきたのに、「何で俺が怒られなきゃならないんだ?」。仕事とは本来が理不尽なものであること痛切に学びました。さらにそのような社外環境に輪をかけて、社内環境的にもぼろぼろでした。いわゆる「エリート」が集まる官僚的な組織、証券取引所。金融インフラとして、それまでであれば黙っていてもお金が入ってくるわけですが、いきなりの大事件勃発と自社の収益悪化に社内の雰囲気も最悪、毎日皆が暗く下を向き、疑心暗鬼になり、社外から来た私に対しても何もできるわけないと非協力的な姿勢を決め込みます。

村上ファンド VS 私

さらに追い討ちをかけてきたのが「村上ファンドによる大阪証券取引所の買収事件」です。通産省(現・経産省)OBで、当時、メディアなどにも多数出演して飛ぶ鳥を落とす勢いだった村上世彰氏。上場会社の経営者ばかりを集めた、彼が主宰するとあるセミナー会場での出来事。
私も興味をもって参加をしていると、会の終盤にいきなり彼がこう叫び始めました。「この会場のなかに大阪証券取引所の人間が紛れ込んでいるようです。私は大証の上場はおかしいと考えています。取引所が上場した理由を明確に答えてほしい。それができないのであれば、上場を取りやめなさい!」と。しばらく黙って身を潜めていると、さらに追い討ちをかけてきました。「ほら、ごらんなさい。彼らには負い目があるから、きちんと説明もできないのです」「皆さん、これでよくわかったでしょう、私が経営に参画したほうがよいということを」。
そう言い終わらないうちに、私は立ち上がって、こう発言していました。「あなたのような上っ面のパフォーマンスばかりの人間に取引所の経営なんか理解ができるわけがない。われわれが上場したことで、内部の人間がどれだけ仕事をしやすくなったか、そのお陰で上場会社をふやすことができたこと、あなたには到底わからないと思う」と。会場の参加者からは拍手喝采をいただきました。

新興市場の復活劇

さて、そんなこんなで最初の1、2年はひどいことも続きましたが、耐えて忍ぶとチャンスは必ずやってきます。大証自体の上場に続き、某大型新規上場銘柄のヘラクレスへの上場が立て続けに発表されたのです。それまではヘラクレスに上場することはリスクがあるといわれ、金融機関にもベンチャー企業にも敬遠する風潮があったのが、徐々にですが流れが変わり始めます。
そしてその後は、堰を切ったかのようなヘラクレスへの上場ラッシュ、でした。それに伴い、ヘラクレス上場銘柄への買い注文もふえ、東証のマザーズ市場と遜色がなくなってきました。3年、4年、5年と経過するうちに、ついに年間の上場会社数も100社を突破、新興市場の運営が完全に流れに乗りはじめます。
安堵する一方、しかし外部からその立上げを目的に移籍をしてきた自分としては、何となく役割を終えて燃え尽きたような、物足りなさを感じはじめていたのも事実でした。そんな時です、世の中を震撼させる大事件が起きたのは。

青天の霹靂「ライブドア事件」

ライブドア事件、皆さんは覚えていますでしょうか?詳細な事件の内容は割愛しますが、証券取引所に勤める者として、それもライブドアが上場する新興市場「マザーズ」のまさにライバルとして、新興市場の立上げに関わってきた者としては、青天の霹靂、大ショックを受けました。ちょうど、その日はテレビで同社への強制捜査の模様が映し出されており、これからどうなるのか、誰にも予想できない状況でしたが、テレビを眺めながら私の頭の中にはある1つの考えが浮かんできていました。
「もしかして、次の社長になるのは、あの人では……」。そう、「あの人」とは当時、ライブドアに買収され注目されていた経営のプロ、平松康三氏です。実は平松氏とわたしは同じソニーグループの出身ということもあり、ヘラクレスに上場をしてもらえないかと何度か足を運ぶなか、何となく知り合いくらいにはなっていました。私はテレビの生放送でライブドア事件の様子を見ながら、隣にいた妻に「ホリエモンがいなくなった後、もしかしたら平松さん、ライブドアの社長になるかもしれないぞ」。そしてさらにこう続けました。「もし、そうなったら、おそらく彼から
僕にも声がかかるのでは……」と。
それは本当に単なる直感のようなものでしたが、その2日後、平松さん自身から1通の短いメールが届きます。「飯でも食おうや、平松康三」。行くと平松氏はひと言、「一緒にライブドアの再生をやらんか、刺激的だぞ!」。
「俺は男としてこの事件を放っとけない、火中の栗を拾いに行くつもりだ。君も取引所の仕事にも飽きてきた頃じゃないか? そろそろ、リアルなビジネス現場に飛び込んできたらどうだ」と。「火中の栗を拾う」男として、これほど心を揺さぶられる言葉はありませんでした。「俺もやってみたい!」。その瞬間、わたしはライブドアへの移籍を決めていました。与えられた職務はライブドアの子会社で、会計ソフト「弥生会計」で知られる弥生㈱の執行役員兼社長室長。平松さんの後継社長を補佐する仕事で、弥生自身も株式の公開(IPO)を目指すということでそのプロジェクトの責任者でもありました。そこからの2年間、取引所時代にも相当な精神的ストレスがありましたが、それに加えて肉体的にも厳しい日々が続くことになります。六本木ヒルズの38階に個室をあてがわれ、毎日、会社の前のホテルに泊まりこみ、夜中の2時、3時まで仕事。しかもそのままでは興奮のあまり寝付けないので、プロジェクトチームのメンバーと一緒に夜食と飲みに繰り出す毎日。ホテルで数時間仮眠を取った翌朝は、また仕事場へ。最終的にはライブドアに350億円で買収された弥生を海外のファンドへ730億円で売却することができ、私たち経営メンバーもそのままライブドアから離れ、移籍することになりました。本当に一世一代の大仕事であったと思います。

新たなファンド株主との確執

当時の弥生は売上100億円、営業利益率42%の超優良企業。新たに親会社となったその会社は、営業利益率を50%まで伸ばせというが、それはまったく簡単な話ではありませんでした。ライブドア本体は弥生会計を売却した資金を元に、個人株主との訴訟を次々と解決し、何とか解散へと向う。一方で、ライブドアを離れたわれわれを待ち受けていたのは、新たなファンド株主からの容赦ないプレッシャーと、元々いた社員たちからの「あんたらが余計なことをしてくれたお陰で弥生は昔とまったく違う会社になってしまった、どうしてくれるんだ」という非難。実際、ファンドへの売却後、多くの生え抜き社員が辞めていきました。その数、100人は下りません。そして1年を経たずして、私たち経営陣も数名を残して退任に追い込まれることに。
今にして思うと、優良企業の弥生を乗っ取るためにすべてが仕組まれていた話ではないか︱︱真相はいまはもう闇の中ですが、その時に自分の心の中で芽生えた新たな心境、それは「もう、他人のためだけに働くのはやめよう。自分が本当にやりたいことを考え抜いて、自分が理想とする会社をつくってみよう」というものでした。独立を決意した瞬間です。
そのとき、わたしは40歳を過ぎていました。(以下次号)