コラム

コタッキーがいく!① なんで私がベンチャー市場の立ち上げを?!

2019/03/08


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東京都大田区池上。駅からほど近い住宅街にあるおよそ20坪少々の地域密着型デイサービス「東京マルシェ」。その経営を行なうのは、40歳まで金融機関や監査法人、証券取引所等異業種にて税理士として活躍していた異色のオーナー、「コタッキー」こと小瀧歩氏(空手の有段者でもあります)。本連載では、小瀧氏が介護事業に参入し現在のビジネススタイルを確立するに至るまでの個人史とそのプロセスを公開。さらに全国のユニークな介護事業者を訪問し、コタッキーならではの視点を通じその魅力を解き明かしていきます。

新興市場の立ち上げに

金融業界の会社員時代、あることをきっかけに起業をすることを決意した私。といっても、これという武器ももっていたわけでもありません。自分の好きな分野、すなわち「農業」や「食」、「介護予防」など、「人の本物の健康に貢献できる事業を興そう!」という決心だけがありました。
そして会社を設立してから10年。現在行なっているのは「八百屋×ヨガ×介護予防デイサービス×インターネットTV局」を組み合わせたビジネス。2016年3月には厚生労働省、経済産業省、農林水産省の3省が連名で出版した通称「保険外サービス活用ガイドブック」にも国内30モデルのうちの1つとしてご紹介をいただいたので、目にされた方もいらっしゃるかもしれません。
おかげさまで現在は地域でも人気のデイサービスとなり、常時10人ほどの「空き待ち」のお客様がいらっしゃる状況となりました。
一方、これまでの道のりを振り返ると、けっして順風満帆だったわけではなく、赤字決算が続き経営的には幾度となく危機を迎えてきました。しかし資金調達においては銀行などの「間接金融」は一切利用せず、企業から直接出資を受ける「直接金融」のみで生き抜いてきました。これは介護の業界ではかなり珍しい例かもしれません。
国の政策として社会保障費削減の旗印のもと、苦しい経営を余儀なくされている介護事業者の方々も世には少なくないでしょう。かく言う弊社も本当に紆余曲折がありました。
この連載では、まずはこんな私自身の自己紹介からさせていただき、さらに日本各地で面白く志の高い介護事業を展開している事業者の皆さまを取材、誌面にてご紹介していきたいと思います。可能な限り、戦略面やマーケティング、資金調達や銀行対応、人事戦略などの視点を盛り込み、いま一度、「介護を事業として経営する」ことの根幹に切り込んでいきたいと考えております。お付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

人生はじめての転職

さて、話を少し巻き戻します。大学を卒業し、税理士資格を取得した後、私は生命保険会社に勤務、さらに税理士としての専門性を高めたいとの思いから転職を決意し、外資系の監査法人グループの税務部門に運よくもぐりこむことができました。当時はまだ若き32歳、これが人生初の転職でしたが、その世界に飛び込んで本当に驚いたのが、若い人たちの働きっぷり。とくに税務申告の時期などは、2、3日平気で泊まり込んでほとんど寝ずに仕事をします。その一方で実力をつけたマネジャーは、数年も働くとかなりの高給で社外からヘッドハンティングをされて転職していく、非常にドライな世界でもあります。年齢は関係なく、実力だけで評価される世界、これはとんでもないところに来てしまったと身震いしたのを鮮明に覚えています。
当時、私が所属したのは「株式公開」「事業承継」に関する税務コンサルティングのチームでした。国内、地方の老舗企業の創業社長や上場を目指す若きアグレッシブなベンチャー経営者が私のクライアントになります。右も左もわからない私は、ひたすら上司の会計士や税理士先生方のサポート役として、言われた雑務を何でもこなす役回りです。事業承継やM&A、株式上場に関する税務といってもその範囲は相当に広く深く、税理士としてスタートの遅かった私は、その仕事に相当苦労することになります。
そんななかでも、この仕事の醍醐味と感じたのは、一流の経営者の方々と打合せをしたり、食事をする機会をもてたこと。コンサルタントとしては、まだまだ駆け出しではありましたが、所属する監査法人の看板のおかげもあってか、クライアントの経営者の方々には本当に可愛がってもらったものです。特に情熱溢れるベンチャー経営者とは、なぜかウマが合い、飲みに誘っていただけるお付き合いもふえてきました。まだ世の中にないアイデアやビジネスモデルの創造を、少年のように熱く語る若き経営者たちに、私自身も心底あこがれるようになっていきます。
何となく「いつかは自分も起業してみたい」との思いをもちはじめたのはその頃からです。日本でもベンチャーブームが巻き起こり、東京証券取引所がマザーズを、大阪証券取引所がナスダックジャパンという新興ベンチャー市場を創設し、多くのベンチャー経営者が上場していくことができるようになった、そんなある日のことでした。

それなら私がやってやる!

孫正義氏が中心となり創設したナスダックジャパンが「日本を撤退する」という記事が新聞に躍りました。このベンチャーブームの熱狂のなかで、一体何が起こったのか。実態は、上場する企業数が当初ナスダックジャパンが描いていた事業計画通りに伸びず、採算が合わないということでアメリカのナスダックが日本からの徹底を決めたというものでした。これをみて即座にわたしの頭に浮かんだのはクライアントでもあり、親しくさせていただいた経営者の方々のこれからについて。上場する市場がなくなってしまったら、今までの彼らの苦労はどうなってしまうのか? これはすんなりと受け入れられる話ではないと。
まだ若かった私は後先も考えず、ナスダックジャパンと提携をしていた大阪証券取引所に電話をして、ことの経緯と今後の方針について説明を求めました。たどり着いたのは当時の東京支社長M氏。電話で話すこと1時間、埒が明かないので直接その彼と会って話をすることに。さらに場所を会社から新橋の焼鳥屋に移し、お互いの主張が段々にエスカレートしていきました。そうしたなか「そこまで言うのであれば、君がうちの会社に来て新しいベンチャー市場を立ち上げたらどうなんだ!」「わかった、そこまで言うなら、私がやってやる!」。まさに売り言葉に買い言葉。税理士としてのそれまでの仕事を投げ打ち、取引所にて新興ベンチャー市場の立上げを行なうことになったのでした。
当時35歳。その私が1年後には新興市場「ヘラクレス」の本部長という肩書のもと、マーケティング責任者に就くことになったのです。(以下次号)